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2010-08-05

私たちは関係を遠くから扱っている

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 たいていの人は、他の人との関係にあまり真剣ではありません。それというのも私たちはまず、自分自身に関心をもっているのであり、都合のよいときや、満足を得られるとき、感覚的に喜ばしいときにだけ、自分以外のものに関心を抱くからです。私たちは関係を、言ってみれば遠くから扱っているだけで、私たちがそのなかにそっくり含まれてしまっているものとしては、扱っていません。(1st October 1978)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


学校への手紙

2010-07-03

善の美しさにとって、自由こそその本質である

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「善の美しさにとって、自由こそその本質である」ということを、絶えず心に留めておかなければなりません。機械的でない行為はあるのです。しかしそれはあなた方が発見しなければなりません。それについて教えてもらうことも、指導してもらうこともできません。いろいろな例から学ぶこともできないのです。というのも、それでは模倣や適合になってしまうからです。そうなると完全に自由を失うことになり、どのような善も存在しません。(15th September 1978)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


学校への手紙

2010-06-04

過去の継続は機械的な行為となって繰り返される

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 善性は行為にあらわれます。私たちは行為と行動とを区別しなければなりません。おそらくこの両者は同じものなのでしょうが、はっきりさせるためには、分けて検討しなければなりません。正しく行為することは、もっとも困難な行ないのひとつです。それは大変複雑ですので、焦らないで、また何らかの結論に飛躍しないで、とても綿密に検討しなければなりません。

 日常生活では、行為は過去からの連続した動きですが、たまに新しい一連の結論によって行為が変わることもあります。すると、これらの結論は過去のものとなり、今度はそれに従って行為します。人は、〈先入観〉や〈理想〉に従って行為します。ですから、人はいつも〈蓄積された知識〉から行為するわけですが、蓄積された知識は〈過去〉のものです。あるいはまた、人は理想的な〈未来〉、すなわちユートピアを拠り所にして行為します。


 私たちはそのような行為を、正常なものとして受け入れます。しかし本当にそうなのでしょうか?

 私たちは行為がなされたあとで、あるいは行為する前に、行為について問います。けれどもこの問いは、〈あらかじめもっている結論〉に、あるいは〈未来の報酬や罰〉に基づいたものでしかありません。つまり、「これをすればあれを手に入れられるだろう」などといったものです。それだからこそここで、受け入れられている行為の観念全体について、問うているのです。

 行為は、知識や経験を蓄積した後で、行なわれます。あるいは、私たちはまず行為し、その行為から「楽しい」とか「不愉快」だとかを学びます。そしてこの学習が、再び知識の蓄積になります。したがって、このどちらの行為も、共に知識に基づいているのであり、両者に違いはないのです。知識はいつも過去であり、私たちの行為はいつも機械的なのです。

 機械的でない、繰り返しでない、型にはまっていない、したがって後悔のない行為はあるのでしょうか? 自由があり、善性が開花するところ、行為が機械的になりえないところについて理解することは、本当に重要です。

 書くことは機械的です。言語を学ぶこと、車を運転することも機械的です。どのような種類であっても、技術的な知識を獲得すること、そしてその知識に従って行為することは機械的です。また、この機械的な活動のなかに中断があるかもしれず、その中断においてひとつの新しい結論がつくられるかもしれません。けれどもそれは再び機械的になるのです。(15th September 1978)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


学校への手紙

2010-04-24

善の行動には「私」がない

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 善の行動には本質的に、自我、すなわち〈私〉がありません。それは礼儀正しさや他の人に対する思いやりのなかに、清廉さを失うことのない柔軟性のなかに、あらわれます。ですから行動は、途方もなく大切になります。行動は、あっさり片づけることのできるような気軽な出来事ではありません。高尚な精神の遊び道具でもありません。行動はあなた方の存在の深みから生じるものであり、あなた方の毎日の生活の重要部分なのです。(15th September 1978)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


学校への手紙

2010-03-30

計算された行動は善ではない

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 善性は行動や行為において、そして関係においてあらわれます。一般的に私たちの日常の行動は、機械的な、皮相的なパターンに追従するか、あるいは報酬や罰に基づく、とても入念に考え抜かれた動機に従っています。ですから私たちの行動は、意識的にせよ無意識的にせよ、計算されたものとなっています。これは善の行動ではありません。このことを実感するならば、この全面的な否定から、真の行動が起こります。(15th September 1978)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】

2010-03-08

善にはどのような対立もない

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 思考の動き全体は、善ではありません。思考はとても複雑ですが、理解されなくてはなりません。その理解こそが、思考にそれ自体の限界を自覚させるのです。

 善にはどのような対立もありません。たいていの意図は善を〈悪〉や〈悪事〉に対立するものと考えています。またあらゆる文化においても、歴史的にずっと、善性は粗暴さとは別の面だと思われてきました。ですから人は〈善〉であろうとして、いつも〈悪〉と戦ってきました。しかしどんなかたちであっても、暴力や争いのあるところでは、善が生まれることはありえません。(15th September 1978)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】

2010-02-18

善性は自由の中でのみ開花する

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〈善性〉は自由のなかでのみ開花することができます。どのようなかたちであっても、説得の土壌や強制のもとでは花開くことはありません。またそれは報酬の結果でもありません。どのような種類のものであっても、模倣や適合があるとしたら、善性は姿を現わしません。また当然のことですが、恐怖のあるところにも、それは存在できません。善性は行動にあらわれますが、その行動は感受性に基づいています。この善性は、行為にもあらわれます。(15th September 1978)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】