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クリシュナムルティの智慧 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-08-16

「正しい」ことについて理念を持ってしまうことは「正しくはない」のである

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 つまり「正しい」という言葉を使う時、あなたは既に何が正しいかについての【理念】をお持ちである。ところが「正しい」ことについて理念を持ってしまうことは「正しくはない」のである。というのは、この「正しい」なるものはあなたの偏見──おかれた条件、あなたの恐れ、あなたの教養、あなたの会社、あなた自身の特異性である種々の恐怖、宗教的制裁などに基づいてできているからなのです。あなたが物指しであるパタンをもって居られるとしても、そのパタン自身が正しいとは言えない、つまり不道徳なのです。


【『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ/菊川忠夫訳(霞ケ関書房、1982年)】


自由への道 空かける鳳のように

2010-07-14

葛藤の本質は心の分裂、内部の矛盾にある

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 部分化があるところ必らず葛藤があり悲惨が生じる。葛藤の本質は心の分裂、内部の矛盾にあるのです。この矛盾はそのままでは解消され得ない。しかし人間が自己を統合しなければならないということは、人間の特異性の一つです。その意味するところが実際何であるかは私もわかっていません。人間の分裂し対立する二つの部分を、統合するのは何者でしょうか?──という問いを出すのは、統合しようとする自我自身が、このような分裂の一方であるかも知れないからです。しかし人が自己の全体を見つめるなら、そして全体を屈託なく理解するなら──分裂は解消するのです。


【『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ/菊川忠夫訳(霞ケ関書房、1982年)】


自由への道 空かける鳳のように

2010-06-15

危険な世界

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 この世界に人間が持ち込んでいる危険とは、心の中にある暴力の結果であり、恐怖の産物なのです。


【『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ/菊川忠夫訳(霞ケ関書房、1982年)】


自由への道 空かける鳳のように

2010-05-05

言葉の上の理解では意味がない

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 みなさん、おわかりですか? ゆっくり進みましょう。これは難しいところなのです。安直に「はい、わかりました」と言わない方がいい。「はい」とおっしゃったのなら、みなさんがこの講堂を出る時、実際に恐怖から免れていなければいけないのです。みなさんが「イエス」とおっしゃったのは、みなさんが言葉の上で、知的におわかりいただけたということの合図にすぎません。言葉の上での理解では意味がないのです。みなさんと私は、今朝、ここで、恐怖の問題を検討している、だからみなさんがこの部屋を出られて、完全に恐怖から免れているのでなければいけない。つまりみなさんが、自由な人間、完全に生れ代った人間になることを意味する。明日からではなく今からです。


【『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ/菊川忠夫訳(霞ケ関書房、1982年)】


自由への道 空かける鳳のように

2010-04-10

私達の精神は規制されている

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 私達の精神は規制されています──これは明白な事実です。ある特定の文化や社会により規制され、様々な経験に影響され、人間関係の軋轢により、また経済的・気候的・教育的原因により、更には宗教的統一性などによっても制約されています。私達の精神は恐怖を感じ易くできていて、出来ることならこの恐怖を避けようとします。しかし、この恐怖という全体的性格と構造とは、全面的かつ完全には解消することのできないものなのです。そこで私たち(ママ)の問題は、《このように重荷を背負わされた心は、その束縛ばかりでなく恐怖自体をも完全に解消できるか?》という問いになります。けだし、私達に隷従を受容せしめるのは恐怖なのですから。


【『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ/菊川忠夫訳(霞ケ関書房、1982年)】


自由への道 空かける鳳のように

2010-03-19

初めに自由ありき

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 これから行おうとしているような探究をするためには、先に行って究極的に自由になるというのではなく、先ずはじめにわれわれが自由であるのでなければだめです。というのは人が自由でないのなら、探究し調査し検討することはできないのですから。深く見つめるには、実は自由だけではなく、観察に必要な訓練(ディシプリン/規律)もいります。自由と訓練とはたずさえるべきものです(ただし自由になるために訓練をつまねばならないという意味ではありません)私は「訓練」という言葉を使いますが、それは行動を規制し模倣し抑圧し、一定の様式に従わせるというような伝統的な意味で言うのではなく、むしろこの言葉の語源である「学習する」ということなのです。だから、学習と自由とは相たずさえるものだ、自由はそれに必要な学習を伴う、というように言えるわけです。つまり、ある結果を得るために精神的に課した訓練という意味ではありません。この二つ──自由と学習活動は、本質的に欠くことのできない要素です。人間が自由でないなら、自からに関して学ぶことはできません。自由にしてはじめて観察ができる。それもあるパタンだとか、方式、概念にあてはめて見るのではなく、あるがままの自己を観察するのでないといけません。このような観察、知覚、観照というものは、個有(ママ)の訓練、つまり学習をもたらします。何となれば、ここには、規制、模倣、抑圧、統制といったものはないのですから──つまり、新しい、真に美しい姿ができるわけですから、その意味での学習が行われるわけなのです。


【『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ/菊川忠夫訳(霞ケ関書房、1982年)】


自由への道 空かける鳳のように